由井正雪:10万人の浪人を率いた「江戸のカリスマ」

由井正雪:張孔堂の主

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる由井正雪:
  • 江戸時代前期の軍学者。私塾「張孔堂」で楠木正成流の軍学を教え、門弟は数千人に達した。
  • 1651年、三代将軍・徳川家光の死後、幕府転覆を企てた「慶安の変」の首謀者。
  • 計画は密告で発覚。駿府で幕府の捕吏に囲まれ、自害して果てた。

「染物屋の子が、なぜ国家転覆計画を実行に移せるほどの組織を動かせたのか?」

江戸幕府開闘から約50年が経過した17世紀半ば、泰平の世が訪れる一方で、幕府による大名の取り潰し(改易)が相次ぎ、主君を失った多数の浪人が市中に溢れていました。

その数は10万人を超えていたとも言われています。


2. 起源の物語:張孔堂の軍学者

2.1 楠木正成を崇拝

由井正雪は、江戸の神田連雀町(現在の千代田区神田須田町付近)に私塾「張孔堂」を開きました。

張孔堂の名前の由来:
  • 「張」= 張良(漢の軍師)
  • 「孔」= 諸葛孔明(三国志の軍師)
  • 最強の軍師二人を掲げた、野心的なネーミング

2.2 楠木流軍学

正雪は、南北朝時代の英雄・楠木正成を深く尊敬しており、その軍学を「楠木流」として教えていました。

楠木正成は後醍醐天皇に忠義を尽くした伝説的な智将であり、その兵法は浪人たちの心を掴みました。


3. 慶安の変:幕府転覆計画

3.1 10万人の浪人問題

江戸幕府の武断政治によって多くの大名家が改易や減封され、職を失った浪人が社会問題となっていました。

時期状況
関ヶ原〜大坂の陣後戦乱終結、武士の需要激減
改易・減封主君を失った浪人が増加
1651年浪人の数は10万人以上とも

3.2 家光の死

1651年、三代将軍・徳川家光が死去し、幼い四代将軍・徳川家綱が後を継ぎました。

正雪はこれを好機と捉え、幕府転覆と浪人救済を掲げた反乱計画を立てます。

3.3 計画の発覚と最期

しかし、計画は決行前に仲間の密告によって幕府に露見しました。

経緯内容
密告同志からの裏切り
発覚幕府が計画を把握
追跡駿府に逃亡
最期捕吏に囲まれ自害

由井正雪は駿府(現在の静岡市)で幕府の捕吏に囲まれ、自害して果てました。


4. 謎の資金源

4.1 数千人規模の組織

一介の町人出身である由井正雪が、これほど大規模な組織を維持・運営するには、莫大な資金が必要でした。

張孔堂の財源——3つの仮説:
  • 黒幕説:幕政に不満を持つ有力大名(徳川頼宣?)からの秘密支援
  • 献金説:裕福な門弟や町人からの資金提供
  • 自己資金説:塾経営、高利貸し、贋金製造(疑惑)

4.2 徳川頼宣の関与疑惑

最も有力な資金提供者として名前が挙がるのが、御三家の一つ、紀州藩主・徳川頼宣です。

根拠内容
処罰慶安の変後、約10年間にわたり江戸城への登城を禁止
丸橋忠弥主要共謀者が元々頼宣に仕えていた
政策対立家光と政策的に対立していた

ただし、直接的な証拠は発見されておらず、正雪自身も最期に頼宣との関係を否定しました。


5. 同志たち

5.1 丸橋忠弥

宝蔵院流槍術の達人であった丸橋忠弥は、正雪の片腕として幕府転覆計画に加担しました。

江戸城への攻撃を担当する予定でしたが、計画発覚により挙兵前に捕縛され処刑されました。

5.2 金井半兵衛・熊谷直義

同志の金井半兵衛は1,000石取りの旗本の次男であり、熊谷直義も武家の出身でした。

彼らの資産や人脈も、組織の基盤を支えていたと考えられています。


6. 歴史的影響

6.1 武断政治から文治政治へ

慶安の変は未遂に終わったものの、その後の幕府の政治に大きな影響を与えました。

政策転換:
  • 武断政治(武力による支配)から
  • 文治政治(法と教養による支配)への転換
  • 浪人対策の強化

由井正雪の反乱は失敗しましたが、幕府に「浪人問題」を突きつけ、政策転換の契機となりました。


7. 関連記事

由井正雪と江戸時代について:


8. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

関連史跡

場所概要
神田連雀町跡(千代田区)張孔堂があった場所
菩提樹院(静岡市)正雪の墓があるとされる