山名宗全:荒ぶる「赤入道」、足利の権威を土足で踏み荒らした猛将

山名宗全:赤入道

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる山名宗全:
  • 赤入道(あかにゅうどう)」の異名を持ち、短気で怒ると顔が真っ赤になる豪傑。
  • 嘉吉の乱で将軍・足利義教を殺した赤松氏を討伐し、超巨大な勢力となった。
  • [応仁の乱](/blog/onin-war/)では西軍総大将として、娘婿・[細川勝元](/blog/hosokawa-katsumoto/)と決裂。京都を戦場に変えた張本人。

「『赤牛』と恐れられた戦乱のモンスター。将軍のクビを獲った現場の後始末から、自らが『天下』を揺るがす軍団長へ。」

応仁の乱における「西軍」の総大将、山名宗全

彼は、細川勝元の知略に対し、「圧倒的な武力」と「凄み」で立ち向かいました。

彼が率いる山名一族は、一時は日本の6分の1を支配した「六分の一殿」。その強すぎる力が、室町幕府の均衡をぶち壊したのです。


2. 起源の物語:嘉吉の乱からの飛躍

2.1 将軍暗殺の現場から

山名宗全(持豊)が飛躍したのは、歴史のターニングポイント・嘉吉の乱(1441年)です。

嘉吉の乱:
  • 播磨の守護・赤松満祐が6代将軍・足利義教を暗殺
  • 宗全は暗殺の現場に居合わせたが脱出
  • 赤松氏を討伐する先鋒として活躍

2.2 超巨大な勢力へ

この功績で、宗全は播磨・備前・美作という広大な領地を手にし、山名家を一気に日本最強の守護大名へと押し上げました。

しかし、その功績によって強くなりすぎたことが、後に細川勝元との「衝突」を生む不運な種となりました。


3. 六分の一殿

3.1 日本の6分の1を支配

六分の一殿」とは、山名氏が室町時代初期に、日本の全66カ国のうち11カ国の守護を務め、全国の約6分の1を領有するほど強大な勢力を誇っていたことから呼ばれた呼称です。

項目内容
最盛期室町時代初期
領有国11カ国(全66カ国中)
衰退明徳の乱(1391年)で一時弱体化
復活宗全の代で領国を回復・拡大

3.2 四職

山名氏は、室町幕府の「四職(ししき)」の家柄でした。

侍所頭人を務める資格を持つ四家(赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏)の一つです。


4. 応仁の乱:西軍総大将

4.1 細川勝元との決裂

宗全の娘婿であった**細川勝元**と、次第に対立が深まりました。

対立の構図:
  • 将軍家の後継者争い(義視 vs 義尚)
  • 畠山氏・斯波氏の家督争いへの介入
  • かつての義理の親子が敵対

4.2 日野富子との密約

将軍・義政の正室、日野富子と手を組み、彼女の息子(義尚)を次期将軍にするために動きました。

これによって、西軍は「将軍の嫡男を守る」という大義名分を手に入れました。

4.3 「赤牛」の執念

宗全は非常にプライドが高く、「細川に舐められてたまるか」という個人的な意地が戦争を長引かせた側面があります。

彼は戦術的には非常に優秀で、籠城戦やゲリラ戦を巧みに組み合わせ、京都を難攻不落の要塞に変えました。


5. 知られざる真実

5.1 「赤入道」の由来

彼は出家して「宗全」と名乗りましたが、酒を飲んだり怒ったりすると顔が真っ赤になったことから「赤入道」と呼ばれました。

5.2 勝元との皮肉な友情

かつては勝元を高く評価し、自分の娘を嫁にやるほど可愛がっていました。

二人が殺し合う関係になったのは、まさに「時代と家」の板挟みになった悲劇でもありました。

5.3 勝元と同じ年に死亡

宿敵・細川勝元が死ぬわずか2ヶ月前、文明5年(1473年)3月18日、宗全もまた京都の陣中で没しました(享年70)。

二人の老巨星が同時に消えたことが、乱の最大の転機となりました。


6. 現代への遺産

6.1 「西陣」の名前の由来

今の京都の「西陣織」で有名な西陣という地名は、宗全が率いる西軍の陣地があった場所であることから名付けられました。

6.2 山名氏の子孫

宗全の末裔は、戦国時代を生き抜きました。

世代内容
宗全の孫山名政豊が家督を継承
5代後山名豊国が毛利氏・豊臣氏・徳川氏に仕える
江戸時代但馬国村岡藩の藩主(6700石)
明治時代男爵に列せられる

現在も兵庫県北部や鳥取県などにその血筋が残っています。


7. 関連記事

山名宗全と応仁の乱について:


8. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

関連史跡

場所概要
西陣(京都市上京区)西軍の陣地跡、西陣織の発祥地
山名宗全邸跡(京都市)石碑が残る
此隅山城跡(兵庫県豊岡市)山名氏の本拠