天明の大飢饉:90万人を飲み込んだ「地獄絵図」と「奇跡の藩」

天明の大飢饉:危機管理の明暗

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる天明の大飢饉:
  • 1783年、浅間山・岩木山・ラキ火山のトリプル噴火が太陽を覆い、全国で約90万人が餓死。
  • 仙台藩・津軽藩は人口の1/3を失い、人肉食まで記録された地獄絵図が展開された。
  • しかし米沢藩は餓死者ゼロ——その差は「天災」ではなく「人災」と「備え」だった。

「火山が太陽を隠し、寒さが命を奪った、日本史上最悪のディストピア」

異常気象、パンデミック、そして政治の混乱。これらが同時に襲いかかったとき、社会はどれほど脆く崩壊するのか?

天明の大飢饉(1782年〜1788年)は、単なる過去の悲劇ではありません。複合災害のリスクを抱える現代への「強烈な警告」なのです。


2. 起源の物語:空が閉じ、地獄が始まった

天明3年:トリプル火山噴火

時は天明年間(1780年代)。きっかけは、地球規模の「空の異変」でした。

1783年(天明3年)、3つの火山が相次いで噴火。それぞれ異なる形で致命的な被害をもたらしました。

2.1 浅間山(群馬・長野県境):物理的な破壊

天明3年7月8日(1783年8月5日)、浅間山が大噴火を起こしました。

「天明の浅間焼け」と呼ばれるこの噴火の最大の悲劇は、北麓の鎌原(かんばら)村で起きました。

鎌原村の悲劇——日本のポンペイ:
  • 大規模な火砕流と土石なだれが村を直撃
  • わずか数十分で村全体が土砂に埋まる
  • 人口約570人のうち477人が死亡
  • 観音堂の石段を駆け上がった93人だけが奇跡的に生存

石段の地下からは、背負った年配者を守ろうとして埋もれた若い女性の遺骨も発見されています。まさに「日本のポンペイ」と呼ぶにふさわしい惨劇でした。

土砂は利根川へ流入し、大洪水を引き起こして関東平野一帯に被害を与えました。江戸でも約3cmの火山灰が積もったと記録されています。

2.2 ラキ火山(アイスランド):地球規模の気候変動

日本から最も遠い場所ですが、最も深刻な影響を与えた火山がラキ火山です。

放出された大量の有毒ガス(二酸化硫黄)は、浅間山の数十倍。これが成層圏で硫酸の霧(エアロゾル)となり、北半球全体を覆いました。

この霧が日射を遮ったため:

  • ヨーロッパ:フランス革命(1789年)の遠因となる食糧危機
  • 日本:数年にわたる異常低温(冷害)の固定化

「夏のない年」——太陽が消えた時代が始まったのです。

2.3 岩木山(青森県津軽地方):東北への追い打ち

浅間山より早い4月に噴火した岩木山は、津軽地方を中心に大量の火山灰を降らせました。

ただでさえ冷害で弱っていた東北北部の農地に、トドメを刺したのです。

「やませ」と立ち枯れ

夏だというのに、東北地方では綿入れが必要なほどの寒さが続き、霜が降りました。

「やませ」と呼ばれる冷たい風も吹き荒れ、田んぼの稲は実を結ばないまま立ち枯れていきました。

これが、その後数年にわたって続く「地獄」の始まりでした。


3. 複合災害のドミノ倒し

なぜ、ここまで被害が拡大したのか? その仕組みは**「複合災害のドミノ倒し」**に例えられます。

段階発生したこと
1. トリガー(寒冷化)火山噴火と冷夏により、食料生産がほぼゼロに
2. 政策の失敗(人災)凶作なのに、藩や商人は利益を優先して米を江戸に送った(飢餓輸出)
3. 社会崩壊(パンデミック)飢えで免疫力が落ちた人々の間で、赤痢やチフスが爆発的に流行
4. モラルハザード治安が悪化し、略奪や打ちこわしが横行。「自分さえ生き残れば」という極限状態に

単なる「不作」ではなく、政治の無策と疫病が重なることで、被害は何倍にも膨れ上がったのです。


4. 藩別被害比較:「地獄」と「奇跡」の隣り合わせ

4.1 被害の全体像

天明の大飢饉における東北各藩の被害は、驚くほど差がありました。

餓死者数人口比備蓄・対策
津軽藩約8〜10万人人口の約1/3飢饉前に備蓄米を江戸に売却、農民からも強制徴収
南部藩(本藩)約7.5万人以上人口の約1/4対策は「お粗末」と評される、歴史的に準備不足
八戸藩(南部支藩)約3万人人口の約1/2本藩より北方で被害甚大
仙台藩14〜30万人(推計)村によっては人口が1/3に飢饉前年に備蓄米を売却して「人災」に
秋田藩周辺藩の約1/10比較的軽微他藩からの避難民にも粥を支給する手厚い対策
米沢藩ほぼゼロ上杉鷹山の備荒貯蓄制度で完璧に対応
秋田藩米沢藩は飢饉を乗り切った「勝ち組」。事前の備蓄と迅速な対策が明暗を分けた。

4.2 被害格差の要因

要因被害が大きかった藩被害を抑えた藩
備蓄米の運用飢饉直前に売却(仙台・津軽)備荒貯蓄制度を維持(米沢)
年貢の過重種籾まで徴収(南部)適正な徴収
救済策後手に回り効果薄い他藩避難民にも粥を支給(秋田)
経済構造米作への過度な依存多角的な経済
交通インフラ未整備で救援物資が届かない整備済み

5. 知られざる真実:記録された地獄

5.1 「人肉食」のタブー

八戸藩の記録や、蘭学者・杉田玄白の『後見草』には、あまりの飢えに耐えかねて、死者の肉を食べたという衝撃的な記述が残されています。

  • 犬の肉と偽って人肉が売買されたという記録
  • 後に検閲で削除された箇所も存在
  • これらは東北各地の「飢饉供養塔」に刻まれた血の記憶

5.2 人口激減

この飢饉の前後で、日本の総人口は約100万人も減少しました。

これは当時の人口の約3%にあたり、現代の日本で言えば300万人以上が消滅する規模の大惨事でした。

5.3 なぜ南部藩は特に悲惨だったのか

南部藩の被害が特に深刻だった理由には、構造的な問題がありました。

  1. 地理的ハンディキャップ:水稲耕作の北限地帯、やませ(冷たい偏東風)の直撃
  2. 構造的な準備不足:歴史的に約50回もの凶作を経験していたにもかかわらず、対策は「お粗末」
  3. 過酷な年貢制度:農民から種籾まで徴収→翌年の作付け不能→悪循環
  4. 交通・輸送の困難:山がちな地形で救援物資が届かない

6. 米沢藩の奇跡:上杉鷹山の危機管理

なぜ米沢藩だけが餓死者ゼロだったのか?

米沢藩が天明の大飢饉を乗り切った最大の功労者は、藩主・**上杉鷹山(うえすぎ ようざん)**です。

鷹山は天明の大飢饉が起こる16年前に藩主となり、すでに備荒貯蓄制度を確立していました。

鷹山の7つの対策

対策内容
1. 備荒貯蓄宝暦の飢饉の教訓から1774年に制度整備
2. 藩主自らの倹約木綿の服、一汁一菜の模範的行動
3. 産業の多角化青苧などの特産品、漆・桑・楮の100万本植え立て
4. 迅速な食料配給藩士・領民の区別なく粥を支給
5. 酒・豆腐の製造禁止穀物消費の抑制
6. 救荒食の普及「飯粮集」「かてもの」の発行
7. 他藩難民の受け入れ領民ファーストの精神

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」——鷹山の言葉は、天災は避けられなくても人災は避けられることを証明しています。


7. 祈りと呪術:災害と信仰

朝廷・幕府の祈祷

天明の大飢饉の最中、天明7年(1787年)には、朝廷と幕府が災害鎮静のための祈祷を行ったという記録が残っています。

当時の人々にとって、このような大規模災害は天の怒りや祟りの表れと解釈されることがありました。陰陽道の考え方では、天変地異は「天人相関」——天が地上の支配者に下すメッセージ——として捉えられていました。

しかし、祈祷が飢饉を止めることはありませんでした。

天災に対して祈りは無力でした。しかし、上杉鷹山が行った「備え」は有効でした。これは科学と実務が信仰を超える瞬間であり、日本の危機管理思想における転換点です。

8. 現代への遺産

備蓄の思想

上杉鷹山は、この飢饉を教訓に徹底した備蓄と非常食(かてもの)の研究を行いました。この「リスク管理」の思想は、現代の防災対策の原点です。

供養碑の教訓

東北各地に残る「飢饉供養塔」には、こう刻まれています:

「二度とこんな悲劇を繰り返すな」 「食料を粗末にするな」

SDGsやフードロス問題を考える上で、これほど重い歴史的根拠はないでしょう。

幕府政治の転換

天明の大飢饉は、幕府の政治体制にも大きな影響を与えました。田沼意次の失脚と松平定信の寛政の改革は、この飢饉への批判が背景にあったとされています。


9. 関連記事

災害と信仰、東北の歴史について:


10. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

一次資料・古典

資料名概要
『後見草』杉田玄白飢饉の惨状、人肉食の記録
『飯粮集』『かてもの』救荒食のマニュアル、米沢藩発行
各藩の記録被害状況と対策の記録

学術・参考文献

資料名概要
山形大学デジタルアーカイブ上杉鷹山の改革に関する研究
レファレンス協同データベース天明の飢饉の死者数に関する調査
国立歴史民俗博物館江戸時代の飢饉研究