輪王寺宮公現入道親王:16歳で「もう一人の天皇」に担がれた皇族

輪王寺宮公現入道親王:東北朝廷の盟主

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる輪王寺宮公現入道親王:
  • 徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺のトップとして、16歳で戊辰戦争に巻き込まれた皇族。
  • 上野戦争で彰義隊と共に敗れ、榎本武揚の艦隊で東北へ逃亡。
  • 奥羽越列藩同盟の盟主として、「東武天皇」として即位させる計画まであった。

「戊辰戦争最大の『if』——もし彼が天皇になっていたら、日本は二つに分裂していた。」

時は1868年、江戸幕府が終わりを告げた直後の日本。

上野公園にある寛永寺(徳川将軍家のお墓があるお寺)には、主君を失い、行く場をなくした旧幕府の家臣たち、特に「彰義隊」と名乗る者たちが数千人規模で集まり、新政府への抵抗の意志を燃やしていました。

そして、この寛永寺のトップにいたのが、今回の主人公、輪王寺宮公現入道親王——当時まだ16歳の若者でした。


2. 起源の物語:皇族にして徳川の象徴

2.1 皇族としての血筋

輪王寺宮公現入道親王は、伏見宮邦家親王の第9王子として生まれました。

輪王寺宮の立場:
  • 仁孝天皇の猶子(養子)
  • 孝明天皇の弟にあたる
  • 明治天皇の叔父
  • 1867年に輪王寺宮門跡に就任

2.2 徳川家との深い関係

上野寛永寺は徳川将軍家の菩提寺であり、輪王寺宮はそのトップでした。

皇族でありながら、徳川家と非常に深い関わりを持つ、まさに「二つの世界」に足をかけた存在だったのです。


3. 上野戦争:たった1日の壊滅

3.1 彰義隊の結成

1868年、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、徳川慶喜は新政府に降伏しました。

しかし、これに納得できない旧幕臣たちは「彰義隊」を結成し、上野寛永寺を拠点としました。

3.2 1868年5月15日

新政府軍は、江戸の治安を脅かす彰義隊を「反逆者」とみなし、上野の山に総攻撃を仕掛けます。

項目内容
新政府軍アームストロング砲を装備
彰義隊旧態依然の武器
結果たった1日で壊滅

戦火は寛永寺にも及び、寺は炎上。輪王寺宮は命からがら上野を脱出する羽目になります。


4. 決死の逃避行

4.1 榎本武揚の艦隊

輪王寺宮を守ったのは彰義隊の生き残りや、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が率いる艦隊でした。

彼は軍艦「開陽丸」に乗り込み、嵐の海を北へ、東北へと逃れていきました。

4.2 約400kmの逃避行

江戸から銚子を経由し、仙台に至るまでの約400kmの逃避行は、旧幕臣たちの彼に対する強い忠誠心なくしては成り立ちませんでした。

皇族という身分でありながら、故郷を追われる「お尋ね者」になってしまったのです。


5. 奥羽越列藩同盟の盟主

5.1 30以上の藩を結集

東北へ逃れた輪王寺宮は、新政府に対抗するために結成された**「奥羽越列藩同盟」の盟主**として祀り上げられました。

同盟の規模内容
参加藩30以上
中核仙台藩、米沢藩、会津藩
結成1868年5月6日

5.2 「東武天皇」構想

一部では、輪王寺宮を**「東武天皇」**として即位させる計画まであったと言われています。

なぜ「最後の切り札」だったのか:
  • 血筋の正当性:新政府の「錦の御旗」に対抗できる唯一無二の皇族
  • 象徴的立場:徳川家の菩提寺トップとして旧幕臣たちの忠誠心を集める
  • 政治的役割:バラバラだった諸藩を一つにまとめる「大義名分」

彼の存在が、バラバラだった諸藩を一つにする強力な接着剤の役割を果たしました。


6. 同盟の崩壊とその後

6.1 新政府軍の攻勢

北越戦争や会津戦争を経て、奥羽越列藩同盟は新政府軍の攻勢の前に瓦解し、1868年9月には降伏しました。

6.2 北白川宮能久親王へ

輪王寺宮は謹慎を命じられましたが、後に還俗して北白川宮家を継承し、北白川宮能久親王となりました。

その後の人生内容
還俗北白川宮能久親王
軍歴陸軍中将
日清戦争台湾征討で出征
最期台湾で病没

7. 知られざる真実

7.1 明治天皇の叔父

輪王寺宮は明治天皇の叔父にあたります。

つまり、「東武天皇」対「明治天皇」という対立は、皇族同士の対立でもありました。

7.2 もし「東武天皇」が実現していたら

もし輪王寺宮が本当に天皇として即位していたら、日本は「西の明治天皇」と「東の東武天皇」という二つの朝廷に分裂し、南北朝時代のような長期内乱に陥った可能性もありました。

戊辰戦争最大の「if」——それがこの16歳の若者の肩にかかっていたのです。


8. 関連記事

輪王寺宮と戊辰戦争について:


9. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

年表

出来事
1847年伏見宮邦家親王の第9王子として誕生
1867年輪王寺宮門跡に就任(20歳)
1868年5月上野戦争、東北へ逃亡
1868年5月奥羽越列藩同盟の盟主に
1868年9月同盟降伏、謹慎
1870年還俗、北白川宮能久親王
1895年台湾で病没