九戸政実の乱:秀吉の天下統一を完成させた「最後で最凶の反乱」

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?
- 南部家内部の家督争いから、天下人・秀吉の秩序(奥州仕置)への公然たる反旗へと発展。
- 難攻不落の九戸城を舞台に、圧倒的多数の豊臣軍を一度は絶望させた九戸精鋭の武勇。
- 降伏の約束を裏切り、城内の婦女子までをも皆殺しにする「撫で斬り」で幕を閉じた。
「日本で最後に秀吉に抗った男」——誇り高き中世武士の終焉と、血塗られた新時代の幕開け。
1591年(天正19年)。織田信長が道半ばで倒れ、豊臣秀吉が引き継いだ「天下統一」という壮大なパズル。
その最後のピースをはめ込むために必要だったのは、東北の果て、九戸(現在の岩手県二戸市)で起きた凄惨な戦いでした。
わずか5,000の九戸軍を叩き潰すために、秀吉が送り込んだのは、家康、氏郷、政宗、義光らオールスター軍勢6万5,000。
なぜ、これほどの過剰な戦力が必要だったのか。そこには、中世的な「個の独立」を許さない、中央集権の非情な論理がありました。
2. 起源の物語:南部家の「澱」
2.1 家督争いの遺恨
乱の根底には、名門・南部家の中に溜まった数十年分の「澱(おり)」がありました。
南部家24代当主・晴政の死後、家督を継いだのは、政敵であった南部信直でした。
- 政実は自身の弟・九戸実親を次期当主に推した
- しかし南部信直が当主に
- 「武勇に優れ、実力で南部家を支えてきた」という自負
- 外部(秀吉)の力を借りて宗家の座を固めた信直への憎悪
2.2 奥州仕置と爆発
1590年の「奥州仕置」により、秀吉が信直を正式な大名として公認すると、政実の怒りは爆発しました。
「俺たちの土地を、会ったこともない猿(秀吉)が決めるのは真っ平ご免だ」——中世武士の独立自尊の牙が天下人に向けられたのです。
3. 核心:なぜ6万超の大軍が必要だったのか
3.1 九戸軍という最強の精鋭
九戸氏は名馬の産地を抑えており、その騎馬隊は「南部馬」を駆る無敵の軍団でした。
九戸城の包囲戦が始まると、圧倒的多数の豊臣軍は、城兵の決死の突撃に何度も押し返され、多大な損害を出しました。
「奥州の田舎侍」と侮っていた秀吉の将たちは、その武勇に震え上がったのです。
3.2 秀吉の戦略的威圧
秀吉にとって、この乱は「単なる反乱」ではありませんでした。
- 北条氏を滅ぼした直後
- 心の底では秀吉を認めていない奥州の国衆への威圧
- 家康・氏郷・政宗・義光らオールスターを総動員
- 「逆らえば地獄を見せる」という意思表示
3.3 政宗の「暗躍」と不気味な沈黙
同時期に起きた「葛西大崎一揆」と同様、伊達政宗が裏で九戸側を煽動していたという疑惑が絶えません。
政宗はこの合戦に参陣しつつも、自らは積極的な攻撃を避け、事態の推移を冷徹に観察していました。
この不気味な沈黙が、秀吉にさらなる過剰な警戒心を抱かせた一因でもありました。
4. 攻城戦と降伏
4.1 九戸城包囲
豊臣秀次を総大将とし、蒲生氏郷、浅野長政らが率いる奥州再仕置軍は、総勢6万の兵力で九戸城を包囲しました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 攻撃側 | 豊臣軍 約6万〜6万5千 |
| 守備側 | 九戸軍 約5,000 |
| 主な将 | 豊臣秀次(総大将)、蒲生氏郷、浅野長政 |
| 期間 | 1591年9月 |
4.2 降伏の約束
力攻めを断念した豊臣軍は、菩提寺・長興寺の住職を仲介させ、「降伏すれば命を助ける」と約束しました。
政実は剃髪して城を出ました。
5. 撫で斬り:血塗られた終焉
5.1 約束の裏切り
しかし、政実が城を出た瞬間、豊臣軍は城内に乱入しました。
- 兵士たちは二の丸に追い込まれる
- 火を放たれ、逃げ場を失う
- 非戦闘員の女性や子供までもが皆殺し
- 数千人が「撫で斬り」に
5.2 発掘調査の証言
現在の岩手県二戸市にある「九戸城跡」からは、後年の発掘調査で、頭部のない女性の人骨や、切り刻まれた遺骨が多数出土しています。
これは、歴史の記述が単なる誇張ではなかったことを証明する、あまりにも重い沈黙の証言です。
5.3 政実の処刑
政実自身は、主要家臣らと共に栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)で処刑されました。
処刑される際、政実は死を恐れる様子もなく、並み居る豊臣の将たちを一人一人睨みつけ、こう言い放ったと伝わります:
「今日の死、夢の如し。汝らもいずれまた、我が如くならん」
6. 天下統一の完成
6.1 最後のピース
この乱の終結をもって、日本全土から大規模な合戦が消えました。
九戸政実の首が京都に届けられた日こそが、名実ともに「秀吉の天下」が完成した瞬間だったのです。
6.2 乱後の処理
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 南部信直 | 和賀・稗貫・志和の3郡を加増 |
| 九戸城 | 蒲生氏郷が改修、「福岡城」と改称 |
| 後の盛岡城 | 福岡城が礎に |
7. 伊達・最上との相関
7.1 最上義光の参戦
最上義光も、この乱の鎮圧に軍を送っています。
義光の弟であり、長瀞氏を継承していた長瀞義保は、この九戸政実の乱の戦火の中で命を落としました(異説あり)。
最上家にとっても、この乱は単なる「天下の掃除」ではなく、一族の血を流した重い事件として刻まれています。
8. 関連記事
九戸政実の乱と東北の戦国史について:
- 伊達政宗:スペインに使節を送り、仙台に結界を張った「独眼竜」 — 乱に参陣した疑惑の男
- 最上義光:出羽の麒麟、山形の礎を築いた「虎将」 — 乱で弟を失う
- 関ヶ原の戦い:天下を分けた「あの日」と奥羽の連鎖 — 9年後の天下分け目
9. 出典・参考資料
- Wikipedia「九戸政実の乱」:乱の経緯
- 二戸市公式サイト:九戸城跡(国指定史跡)
一次資料・古典
| 資料名 | 概要 |
|---|---|
| 『南部根元記』 | 南部家側の記録 |
| 『浅野家文書』 | 鎮圧軍側の公式記録 |
| 『奥羽永慶軍記』 | 東北の合戦記録 |
関連史跡
| 場所 | 概要 |
|---|---|
| 九戸城跡(二戸市) | 国指定史跡、発掘調査で人骨出土 |
| 長興寺(二戸市) | 九戸氏の菩提寺 |