国分盛重:仙台の礎を築いた「悩める叔父」

国分盛重:仙台の礎を築いた「悩める叔父」

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる国分盛重:
  • 伊達晴宗の五男(政宗の叔父)として生まれ、仙台平野の国分氏へ養子入りした。
  • 政宗に仕えるも、家中の独立性を警戒され「国分仕置」により権限を奪われる。
  • 最後は伊達家を出奔し、佐竹義宣に仕え、秋田・横手城主として生涯を終えた。

「独眼竜・政宗の叔父にして、かつての『仙台の王』。」

現在の東北最大の都市・仙台。その中心部には、夜の街として有名な**「国分町(こくぶんちょう)」**があります。

この地名の由来となったのが、国分氏です。伊達政宗が仙台城を築くずっと前から、この平野を支配していたのは彼らでした。

そして、その国分氏の「最後の当主」として、伊達家と佐竹家の間で揺れ動いた数奇な運命の持ち主こそが、国分盛重です。


2. 起源の物語:落下傘当主

2.1 「仙台」が生まれる前

物語は、まだ「仙台」という地名が生まれる前に遡ります。

この一帯(宮城郡)は、鎌倉時代から続く名族・国分氏が治める「国分荘」でした。

国分氏とは:
  • 南北朝時代から戦国時代末期まで、現在の仙台市周辺を支配
  • 陸奥国分寺がある宮城郡南部一帯を領有
  • 桓武平氏千葉氏流、または藤原北家秀郷流との説あり

2.2 伊達氏からの養子

戦国時代、伊達氏の勢力が拡大すると、国分氏は伊達氏からの養子を受け入れることで生き残りを図ります。

1577年、そこで送り込まれたのが、**伊達政重(後の国分盛重)**でした。

彼は伊達家のミッションを背負った「落下傘当主」として、国分家中の複雑な人間関係の中に飛び込んだのです。


3. 政宗との確執

3.1 甥と叔父の緊張関係

甥である**伊達政宗**との関係は、緊張感に満ちたものでした。

政宗は出羽・陸奥の完全統一を目指す過程で、叔父である盛重が率いる国分氏の「独立性」を危険視しました。

3.2 国分仕置(1587年)

天正15年(1587年)、政宗は盛重に対して厳しい介入を行います。

国分仕置の内容:
  • 政宗が盛重を討伐しようとする
  • 盛重が謝罪して事態は収拾
  • しかし国分氏の家臣団は政宗直轄
  • 国分氏は大名としての独立性を喪失

盛重は「名ばかりの当主」にされながらも、政宗のために働き続けました。

3.3 天童頼澄をかくまう

天童八楯の盟主・天童頼澄は、最上義光に敗れた後、母の実家である国分家を頼って亡命してきました。

天童頼澄と国分盛重の関係:
  • 天童頼澄の母は、国分盛氏(盛重の前の当主)の娘
  • つまり甥と叔父の関係(血縁上の近い親戚)
  • 自分の立場も危うい中で甥をかくまった盛重
  • 戦国武将の意外な人情味が感じられるエピソード

4. 謎の出奔

4.1 伊達家を離れる

1596年頃、盛重は突如として伊達家を出奔しました。

姉の嫁ぎ先である常陸の佐竹義宣を頼ります。

4.2 出奔の理由

出奔の理由には諸説あります:

内容
逃亡説政宗の粛清を恐れた
スパイ説政宗の密命を帯びていた
不満説処遇への不満

真相は闘の中ですが、一つ確かなのは、彼がその後、佐竹氏の重臣として厚遇されたという事実です。


5. 秋田・横手城主として

5.1 佐竹氏の転封

1600年、関ヶ原の戦いで佐竹氏は東軍・西軍どちらにもつかず、常陸国から秋田へ転封されました。

盛重は佐竹氏に従い、秋田へ移ります。

5.2 横手城を与えられる

横手城主としての盛重:
  • 横手城(秋田県横手市)を与えられる
  • 1000石を領有
  • 元和元年(1615年)に死去するまで横手城主
  • 秋田伊達氏の祖となる

かつて仙台平野を支配した男は、最後は秋田の雪国で静かに生涯を終えました。


6. 現代への遺産:国分町

6.1 東北一の繁華街

仙台城の築城(1601年)に伴い、旧国分氏の家臣や住民たち(国分衆)が現在の場所に移り住んだことから、その町名は「国分町」と名付けられました。

6.2 盛重の名は今も

盛重自身は秋田へ去りましたが、彼の名は東北一の繁華街として、今も仙台の地図の中心に刻まれています。

江戸時代には「こっぽんまち」とも呼ばれていました。


7. 関連記事

国分盛重と伊達家について:


8. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

関連史跡

場所概要
国分町(仙台市青葉区)東北一の繁華街、国分氏に由来
陸奥国分寺跡(仙台市若林区)国分氏の本拠地近く
横手城跡(秋田県横手市)盛重最後の居城