桓武天皇:38年戦争を遂行した征夷の帝王

桓武天皇:征夷の帝王

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる桓武天皇:
  • 794年に平安京に遷都し、400年続く平安時代の幕を開けた天皇。
  • 同時に蝦夷征伐を国家事業として推進、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命。
  • 「二大プロジェクト」の代償は民衆の疲弊——最後は自ら中止を宣言した。

「国家の栄光は、民の苦しみの上に築かれるのか。」

桓武天皇(かんむてんのう)は、日本史上最も野心的で、最も矛盾に満ちた天皇の一人です。

平安京という壮麗な都を築く一方で、東北の蝦夷に対する38年にわたる戦争を遂行しました。その結果、律令国家は最大の版図を実現しましたが、民衆は窮乏し、国家財政は破綻寸前に追い込まれました。


2. 二大プロジェクト:平安京と蝦夷征伐

2.1 平安京遷都(794年)

桓武天皇は、長岡京の造営失敗を経て、794年に平安京(現在の京都)への遷都を敢行しました。

この新しい都は、中国の長安をモデルとした壮大な計画都市であり、東西約4.5km、南北約5.2kmの整然とした碁盤の目状の街区を持っていました。

2.2 蝦夷征伐:38年戦争

桓武天皇が即位した頃、東北地方の蝦夷(えみし)は依然として大和朝廷の支配に服していませんでした。

彼は蝦夷征討を国家の重要事業と位置づけ、複数回の大規模な軍事遠征を命じました。

出来事
789年紀古佐美率いる5万の軍がアテルイに惨敗(巣伏の戦い)
794年大伴弟麻呂を征夷大将軍に任命
797年坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命
801年田村麻呂、蝦夷軍を撃破
802年アテルイ降伏、胆沢城築城
803年志波城築城
805年蝦夷征伐の中止を宣言

3. 征夷大将軍・坂上田村麻呂

3.1 蝦夷の戦術を学んだ将軍

坂上田村麻呂は、蝦夷との戦いの中で、彼らの戦術を深く研究しました。

紀古佐美が敗北した理由——蝦夷の騎馬弓術とゲリラ戦術——を理解し、正面からの決戦ではなく、消耗戦と城柵建設による長期的な戦略に転換しました。

3.2 アテルイの助命嘆願

田村麻呂は、降伏したアテルイの命を救おうと朝廷に嘆願しました。

「彼らを生かして北方の統治に当たらせるべきだ」

しかし、朝廷はこれを拒否。アテルイと母礼は「朝敵」として処刑されました。

前線の将軍と後方の朝廷の間には、深刻な認識の断絶がありました。


4. 民衆の疲弊:帝国の代償

4.1 過酷な負担

平安京造営と蝦夷征伐という二大プロジェクトの代償は、民衆の肩に重くのしかかりました。

  • 兵役:東国の農民が兵士として徴発される
  • 労役:城柵建設、都の造営に動員される
  • :軍需物資、建設資材の調達

この負担に耐えかねた農民の逃亡(浮浪)や戸籍偽装が蔓延し、律令制の根幹が揺らぎました

4.2 軍制改革:健児の制

792年、桓武天皇は全国一律の徴兵制(軍団制)を辺境を除いて廃止し、郡司の子弟などを中心とした少数精鋭の健児(こんでい)の制へと移行しました。

これは、農民の軍役負担を軽減するための、やむにやまれぬ措置でした。


5. 徳政相論:勝利と民の幸福

5.1 「軍事と造作」の中止

805年、桓武天皇の治世末期に「徳政相論」と呼ばれる論争が行われました。

藤原緒嗣の主張:
「天下の民の苦しみは、軍事(蝦夷征伐)と造作(平安京造営)にあり。この二つを止めれば、民は安んずる」

驚くべきことに、桓武天皇はこの主張を受け入れ、蝦夷征伐と平安京造営の中止を宣言しました。

5.2 勝利の意味

この出来事は、桓武天皇自身が、自らの「勝利」が民の「幸福」と両立しないことを認めた瞬間でした。

国家の帝国主義的野心は、自らの民の福祉と真っ向から対立していたのです。


6. 桓武天皇の遺産

6.1 平安時代の幕開け

桓武天皇が築いた平安京は、以後約400年にわたって日本の首都として機能し続けました。「平安時代」という時代名は、この都に由来します。

6.2 律令国家の最大版図

蝦夷征伐により、大和朝廷の支配領域は東北地方へと大きく拡大しました。胆沢城・志波城などの城柵は、その支配の拠点となりました。

6.3 武士の萌芽

皮肉なことに、蝦夷征伐のために動員された坂東武者や、俘囚として全国に散らばった蝦夷の子孫たちは、やがて武士という新しい階級を形成していきます。

桓武天皇が推進した戦争は、自らの血統である天皇家を脅かす存在——武士——を生み出す遠因となったのです。


7. 関連記事

桓武天皇と蝦夷征伐について:


8. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

一次資料・古典

資料名概要
『続日本紀』桓武天皇期の公式記録
『日本後紀』蝦夷征伐の後半期の記録

学術・参考文献

資料名概要
胆沢城跡歴史公園桓武天皇期の城柵
多賀城跡蝦夷征伐の拠点