伊達政宗:スペインに使節を送り、仙台に結界を張った「独眼竜」

伊達政宗:独眼竜の4つの顔

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる伊達政宗:
  • 天然痘で右目を失うも、18歳で家督を継ぎ、奥羽の覇者から仙台藩祖へ。
  • 陰陽師・土御門久脩を京都から招き、六芒星結界の都市計画を実行。
  • 家臣・支倉常長をスペイン・ローマに派遣——鎖国直前、最後の国際外交を試みた。

「あと10年早く生まれていれば、天下を取れた」

伊達政宗(だて まさむね)。「独眼竜」の異名で知られる戦国最後の名将です。

しかし政宗は、単なる「戦争が強い武将」ではありませんでした。

  • 伊達者:ファッションと自己ブランディングの達人
  • 都市設計者:陰陽道を用いた六芒星結界の都市計画
  • 国際外交家:キリスト教を利用したスペインへの使節派遣
  • 料理男子:仙台味噌の開発とおもてなしの哲学

本記事では、政宗の「5つの顔」を紐解きます。


2. 起源の物語:片目の梵天丸

2.1 幼少期と片目の喪失

1567年(永禄10年)、伊達政宗は出羽国米沢城(現・山形県米沢市)で生まれました。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)

右目を失った経緯:
  • 5歳の頃、天然痘を患い右目を失明
  • これがコンプレックスとなり、肖像画では隻眼を描かせなかったとされる
  • 「独眼竜」の異名は後世の命名(江戸後期・頼山陽による)

「独眼竜」とは、中国唐代の片目の将軍・李克用になぞらえた称号です。政宗本人は自らをそう呼んでいませんでした。

2.2 18歳で家督相続

1584年、政宗は18歳で伊達家第17代当主となりました。

その後、東北地方で猛烈な勢力拡大を開始。1589年の摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名氏を破り、奥羽の覇者として名を轟かせます。

しかし——この時すでに、豊臣秀吉による天下統一は目前でした。


3. 「伊達者」という自己演出

3.1 コンプレックスの反転

幼少期の天然痘による右目の喪失は、政宗に深いコンプレックスを与えました。しかし彼は、その弱みを逆手に取りました。

誰よりも派手で堂々と振る舞うことで、弱みを見せない「過剰な鎧」を身につけたのです。

伊達者(だてしゃ)」という言葉の語源には諸説ありますが、政宗の派手な振る舞いがその一因とも言われています。

3.2 視覚効果としての軍事パフォーマンス

演出効果
黒漆塗りの甲冑全軍を黒で統一し、威圧感を演出
三日月の前立て月(陰)の象徴、陰陽道的意味合いも
死装束での参陣秀吉への「エンターテインメントとしての命乞い」

1590年、小田原参陣の遅れを責められた際、政宗は死を覚悟した白装束で現れました。また、一揆扇動の疑いをかけられた際には金箔の磔柱を掲げて登場したとも伝わります。

これらは、パフォーマンス好きの秀吉の性格を逆手に取った究極の心理交渉術でした。

3.3 「眼帯」の真実

眼帯の伝説と史実:
  • 同時代の肖像画や遺骨の調査では、政宗は眼帯をしていなかった可能性が高い
  • 右目は失明して白濁していたが、そのまま露出していたとされる
  • 現在の「眼帯をした政宗」は後世のドラマや映画による演出

「隻眼のヒーロー」としての記号性を高めるための後付けの設定ですが、そのイメージすらも自らの伝説に取り込んでしまう懐の深さこそ、伊達政宗という男の魅力なのです。


3. 仙台藩の建設:六芒星結界の都市

3.1 仙台城と城下町の開府

1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した政宗は、仙台への居城移転を開始しました。

項目内容
石高62万石(全国有数の大藩)
領域宮城県全域、岩手県南部、福島県新地町
仙台城(青葉城)
人口江戸時代を通じて東北最大の都市

政宗は単なる「城」を作ったのではありません。呪術的な防衛装置を備えた「霊的セキュリティシステム」を備えた都市を設計したのです。

3.2 土御門久脩の招聘

政宗は、京都から当代きっての陰陽師・土御門久脩(つちみかど ひさなが)を招きました。

土御門家は、平安時代のスーパー陰陽師・安倍晴明の直系子孫です。

土御門久脩に与えられたミッション:
  • 鬼門封じ:城下町の北東に寺社を配置
  • 四神相応陰陽五行説に基づく風水的都市設計
  • 六芒星結界:主要神社を結ぶ幾何学的配置

詳しくは 仙台六芒星:伊達政宗が仕掛けた霊的セキュリティシステム をご覧ください。

3.3 なぜ「月」の前立て?

政宗の兜に輝く三日月の前立ては、六芒星結界と無関係ではないという説があります。

陰陽道において:

  • 六芒星 = の星(魔除け)
  • 月 = の象徴

政宗は自ら「陰」を纏い、仙台の守護者となったのかもしれません。


4. 慶長遣欧使節:スペインへの野望

4.1 サン・ファン・バウティスタ号

1613年(慶長18年)、政宗は前代未聞の計画を実行しました。

家臣・**支倉常長(はせくら つねなが)**を、スペイン国王とローマ教皇のもとへ派遣したのです。

慶長遣欧使節の概要:
  • :サン・ファン・バウティスタ号(仙台藩で建造)
  • 目的:スペインとの通商交渉、キリスト教布教の許可
  • ルート:石巻 → メキシコ → スペイン → ローマ
  • 期間:7年間(1613年〜1620年)

支倉常長は、日本人として初めて太平洋と大西洋を横断し、ヨーロッパで外交交渉を行った人物として歴史に名を残しています。

4.2 政宗の真意:天下への野望か?

なぜ、東北の一大名がここまで大規模な外交を仕掛けたのか?

諸説ありますが、有力な説は以下の通りです:

内容
通商説スペイン・メキシコとの直接貿易による経済力強化
軍事同盟説スペインの軍事力を背景に、徳川幕府に対抗する構想
キリシタン王国説仙台を拠点にキリシタン勢力を結集、独立王国化

真意は不明ですが、「鎖国直前の日本で、最も国際的な視野を持っていた大名」であったことは間違いありません。

4.3 使節の結末

しかし、交渉は失敗に終わりました。

  • 日本国内でキリスト教禁止令が強化
  • スペイン側も「禁教国との通商」に慎重
  • 支倉常長は7年後、手ぶらで帰国

支倉は帰国後まもなく死去。政宗の野望は、歴史の闇に消えました。


5. 父としての政宗:伊達宗清への配慮

5.1 三男・宗清への領地

政宗には多くの子がいました。その中で三男・**伊達宗清**は、黒川郡(吉岡)に3万8千石を与えられ、吉岡城主となりました。

政宗と宗清の関係:
  • 宗清は側室・飯坂の局の子
  • 母方の家系「飯坂氏」を再興する形で黒川郡を領有
  • 吉岡城と城下町を築き、「城下町吉岡」を開府

政宗は、一門としての待遇(3万8千石は小大名級)を与えることで、宗清の地位を確保しました。

しかし、宗清は34歳で早世。後継ぎがなく、吉岡藩は一代で消滅してしまいます。

5.2 長女・五郎八姫

政宗の長女・**五郎八姫(いろはひめ)**は、徳川家康の六男・松平忠輝に嫁ぎました。

これは伊達家と徳川家を結ぶ政略結婚でしたが、忠輝が改易(追放)されたため、五郎八姫は仙台に戻り、生涯再婚しませんでした。

彼女は宗清の異母姉にあたります。


6. 政宗の遺産

6.1 仙台藩の礎

伊達政宗は1636年(寛永13年)、70歳で死去しました。

彼が築いた仙台藩は、幕末まで約250年間存続。東北最大の都市として繁栄し続けました。

6.2 瑞鳳殿

政宗の墓所・**瑞鳳殿(ずいほうでん)**は、仙台市の観光名所として今も多くの人々を惹きつけています。

6.3 「独眼竜」の伝説

戦国武将としての武勇、国際的な視野、呪術的な都市計画——政宗は多面的な魅力を持つ人物として、今なお人気を誇っています。

ゲーム『戦国BASARA』での英語交じりの描写や、大河ドラマでの渡辺謙の熱演など、時代を超えて「カッコいい」の象徴として消費され続けることこそ、彼が望んだ「伊達」の完成形なのかもしれません。

政宗の5つの顔:
  • 戦国武将:奥羽の覇者、摺上原の勝利
  • 伊達者:自己ブランディングと心理交渉術
  • 都市設計者:六芒星結界、土御門久脩との連携
  • 国際外交家:慶長遣欧使節、スペインへの野望
  • 料理男子:仙台味噌、ずんだ、「馳走」の哲学

7. 関連記事

伊達政宗と仙台藩について:


8. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

一次資料・古典

資料名概要
『伊達治家記録』伊達家の公式歴史書
『貞山公治家記録』政宗時代の詳細な記録、料理に関する名言など
『命期集』政宗晩年の言行録、「馳走」の名言
支倉常長関係資料(ユネスコ世界記憶遺産)慶長遣欧使節の一次資料

食文化関連

参考資料URL
全国味噌工業協同組合連合会https://omiso.or.jp/
仙台味噌醤油株式会社https://sendaimiso.co.jp/
刀剣ワールド「伊達政宗と食文化」https://www.touken-world.jp/

関連史跡

場所概要
仙台城跡(青葉城)政宗が築いた居城
瑞鳳殿(仙台市)政宗の墓所、国宝建築
サン・ファン・バウティスタ号(石巻市)復元船の展示
大崎八幡宮(仙台市)六芒星結界の頂点、国宝