阿部正弘:ペリー来航に「衆議」で立ち向かった若き老中

阿部正弘:開国を導いた老中首座

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる阿部正弘:
  • 1853年のペリー来航時、老中首座として幕府を率いた39歳の若き宰相。
  • 前代未聞の「意見公募政治」で広く意見を求め、719通以上の意見書が殺到。
  • 勝海舟・島津斉彬・松平慶永らを登用し、日本の近代化への道を開いた。

「黒船来航という未曾有の国難に、前代未聞の『意見公募政治』で臨んだ若き天才宰相。」

江戸幕府が始まって約200年以上、政治は将軍と、その周りにいる譜代大名や幕臣といった、ごく限られたエリート層だけで動かされていました。

ところが1853年、突如としてペリー率いる4隻の黒船が江戸湾に現れます。この未曾有の危機に、阿部正弘は「もう幕府だけでは決められない。皆の意見を聞こう!」という前代未聞の手法を打ち出しました。


2. 起源の物語:25歳で老中、27歳で首座

2.1 若き天才の抜擢

阿部正弘(1819-1857)は、備後福山藩主でした。

異例の出世:
  • 25歳で老中に任命
  • 27歳で老中首座(事実上のトップ)
  • 12代将軍・徳川家慶と13代・家定の二代に仕える

2.2 二人の将軍に仕える

将軍期間出来事
徳川家慶(12代)ペリー来航(1853年)来航直後に病没
徳川家定(13代)日米和親条約(1854年)政務を阿部に任せきり

3. ペリー来航と「意見公募政治」

3.1 黒船の衝撃

1853年7月8日、ペリー提督率いる4隻の黒船が江戸湾に来航しました。

「開国しろ」というアメリカからの強烈なプレッシャーに、幕府は大パニックに陥りました。

3.2 719通の意見書

阿部正弘は、ペリーからの要求にどう応えるか、朝廷や全ての大名はもとより、身分の低い武士や町人にまで意見を求めました

意見公募の結果:
  • 幕府には719通以上の意見書が殺到
  • 内容は「断固攘夷」「やむなく開国」「貿易だけOK」などバラバラ
  • 議論している間に1年が経過

3.3 日米和親条約

翌1854年、再び来航したペリーに対し、結局、十分な交渉もできないまま日米和親条約を結ばざるを得ませんでした。

良かれと思って聞いた意見が、逆に幕府の優柔不断さを露呈し、信頼を失う結果にもなりました。


4. 両刃の剣

4.1 なぜ「両刃の剣」だったのか

阿部正弘の「意見公募政治」は、一時的な危機回避には役立ったものの、結果的に幕府の絶対的な権威を失墜させ、討幕への流れを加速させることにもなりました。

評価内容
功績有能な人材を登用し、日本の近代化への道を開いた
代償幕府の意思決定が遅れ、諸藩が独自に力をつけるきっかけに

4.2 三つの理由

  1. 意思決定の遅延:全員の意見を聞こうとした結果、国論がまとまらず
  2. 人材登用の成功:勝海舟・江川英龍らテクノクラートを重要な役職に抜擢
  3. 藩の独自路線:薩摩・長州が「我々も国を動かす当事者だ」と意識

5. 安政の改革

5.1 人材登用

阿部正弘は家柄や身分にとらわれず、実力のある人物を積極的に登用しました。

人物身分役割
島津斉彬外様大名(薩摩)幕政に参与
松平慶永親藩大名(越前)幕政に参与
勝海舟低い身分の旗本長崎海軍伝習所へ派遣
江川英龍代官海防・砲術の専門家

5.2 長崎海軍伝習所

1855年、阿部正弘は海軍士官養成のため長崎海軍伝習所を設立しました。

長崎海軍伝習所:
  • オランダ海軍士官を教師に招聘
  • 勝海舟が第1期生として入所
  • 後の日本海軍の基礎を築く

これは、後の明治政府が行う「実力主義」の先駆けとも言える大きな功績でした。


6. 幕府崩壊への伏線

6.1 藩の独自路線

「幕府が広く意見を求める」という姿勢は、諸藩、特に薩摩藩や長州藩に「もはや幕府の言うことだけを聞く時代ではない」という意識を植え付けました。

動き
薩摩藩集成館事業で大砲・軍艦を独自製造
長州藩京都で朝廷を動かす政治工作

6.2 わずか10年で幕府崩壊

阿部正弘の死後、わずか10年ほどで日本は大政奉還へと向かいました。

39歳の若さで急逝した阿部正弘。彼の功績と代償は、日本近代化の光と影を象徴しています。


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阿部正弘と幕末について:


8. 出典・参考資料

主要参考資料(クリックでアクセス):

年表

出来事
1819年備後福山藩主の子として誕生
1843年25歳で老中に就任
1845年27歳で老中首座
1853年ペリー来航、意見公募
1854年日米和親条約締結
1855年長崎海軍伝習所設立
1857年39歳で急逝